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ウェブレファレンス(調べもののご相談)

レファレンス・サービスとは

調べものをしたり、資料を探したりすることを図書館がお手伝いするサービスです。各図書館の窓口や電話でもお受けしていますが、ホームページからも、お申込みができます。
日常の中で調べたいことやわからないことがありましたら、お気軽におたずねください。 原則として受付後7開館日以内にEメールで回答をお送りします。お急ぎの場合は電話でのレファレンスをご利用ください。
ご質問は、お一人につき1件までお受けいたします。2件目以降のご質問は、先に申し込んだ質問の回答が届いてからお申込みください。

ご利用方法

  • WEBレファレンスサービスのご利用には、練馬区立図書館の利用登録が必要です。 利用者ログイン画面より利用者のページに進みます。利用者ID(利用カードのバーコードの下の番号)とパスワードを入力して送信ボタンを押してください。
  • レファレンス受付フォームに進み、名前、電話番号、Eメールアドレス、質問内容などを入力してください。
  • 回答は入力したEメールアドレスにお送りします。図書館からのEメール『@lib.nerima.tokyo.jp』を受信できるようにしてください。
  • 調べものの内容は、できるだけ具体的にわかりやすくお書きください。確認済みの事項がありましたら、資料名なども含めてご記入ください。より良い回答のため、お電話で内容を確認させていただくことがあります。

その他の注意事項

  • 資料の検索や予約、貸出期限・取置期限の延長、未所蔵資料のリクエスト・購入希望、システムに関する質問などは、WEBレファレンスからはお受けできません。
  • 内容によっては、お答えできない場合があります。(医療健康相談、法律相談、人生相談、美術品の鑑定、学校の宿題、クイズの答えなど)
  • 質問内容の欄には個人情報等は記入しないでください。
  • レファレンスサービス向上のため、個人情報に注意を払ったうえで、お送りいただいた内容を整理し、活用させていただく場合があります。あらかじめご了承ください。
  • お送りいただいた内容は、個人情報保護の観点から回答を送付後、自動的に個人情報が削除されます。あとから質問内容に対する個人を特定することができないため、「以前の質問の続き」のように、内容が特定できないお問い合わせにはお答えしかねます。

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レファレンス事例集

これまでにつぎのようなご質問が寄せられました。回答も合わせて紹介します。調べもの、資料探しでお困りのときは、ぜひウェブレファレンスをご利用ください。

 
  •  豊玉上1 丁目武蔵高校内にあった東京管区気象台練馬地域気象観測所は、周辺にビルが建
     つなどして風通しが悪くなり、正確な観測が難しくなったため、2012年12月26日に石神井台1
     丁目(日本銀行石神井運動場跡地)に移転しました。なお現在、東京管区気象台地域気象観測
     所(アメダス)は島部を除いて10箇所となっており、23区では練馬、世田谷、大手町、新木場、羽
     田にあります(気象庁ホームページ2013.01.07)。
  • 『マイ・サイエンス・ブック 3』の22ページに「水はどこにきえたの?」という項目があります。『学研の観察・実験シリーズ 12 空気中の水の変化』の10ページに「身のまわりの水のじょう発」として洗濯物が乾くしくみが説明してあります。『目で見る物理』や『ビジュアルディクショナリー 18 物理の世界』などでは、物質の状態の変化や熱と温度などについて調べることができます。
     また練馬区立図書館ホームページ図書等詳細検索画面で、1.キーワード にタイトル「分子」2.範囲選択の分類に420または430を入力するとそれぞれ5件と8件の結果が得られます(420は物理学、430は化学の分類です)。タイトルは空白にして分類項目と出版年指定をするなど、様々な形式で検索してみてください。お近くの図書館においでの際は百科事典で「蒸発」「分子」などの項目をご覧になることもお勧めします。(2010年8月)
  • 所蔵資料検索の図書等詳細検索のタイトルに“東日本大震災”を入れて検索すると47件ヒットしますが、タイトルをプルダウンして件名に“東日本大震災”と入れて検索すると77件とヒット数が増えます。タイトルに“福島原発”を入れて検索すると20件、件名に“原子力発電”で2011年にしぼって78件、件名に“原子力災害”で2011年にしぼって34件それぞれヒットします。詳細を参考に読みたい本をお探しください。
     『日本復興計画』、『津波と原発』、『闘う日本―東日本大震災1カ月の全記録』、『大災害から復活する日本』、『超巨大地震に迫るー日本列島で何が起きているのか』、『原発事故残留汚染の危険性』、『世界が見た福島原発災害』、『放射能を防ぐ知恵』、などがあります。(2011年8月)
  • 「道成寺」で検索すると全体で42件ヒットします。光が丘図書館所蔵15件のうち、『安珍と清姫』(歴史春秋出版)に「今昔物語」のタイトルが明記されていました(紀伊ノ国道成寺ノ僧、法花(法華)ヲ写シテ蛇ヲ救ウ語(コト))。本朝部に所収と考え、目次の文言に総当たりして「紀伊ノ国」を探し、内容を確認しました。「今昔物語集2」(平凡社 東洋文庫)、「安珍と清姫」(道成寺物語)、「新日本古典文学大系35」(今昔物語集)岩波書店、などの図書に載っています。(2010年12月)
  • 『中世関東の内海世界』(鈴木哲雄 岩田書院)にくわしい説明と地図があります。これ以外にも『年表・隅田川』(日本図書刊行会)『足立風土記稿 地区編1千住』『利根川荒川事典』(国書刊行会)『台東区史 通史編1』などに古隅田川についての説明や図があります。あわせて、この時代の交通について「京から関東への道程」も知りたいということでしたので、『日本交通史』(吉川弘文館)、『日本中世史事典』(朝倉書店)(P.522中世の交通の図)にも出ています。
  • 練馬区向山町、豊島園内。(西武池袋線豊島園下車)

    『日本の名城・古城事典』 TBSブリタニカ 1989
    豊島城ともいい、石神井城主豊島泰景の弟景村が居住した。現在の豊島園内の花壇が館跡、北東隅の稲荷の小祠がある小高い場所が櫓跡といわれる。 (練馬区向山町、豊島園内。西武池袋線豊島園下車)

    『日本城郭辞典』 東京堂出版 1995
    室町時代初め頃豊島氏が築いたが、没落と共に廃城。遺構地形のみ。内郭とその付近は遊園地豊島園となり、外郭は住宅になっている。

    『日本城郭大系 5』 新人物往来社 1979
    練馬城は向山町の台地に位置しており、北方に石神井川(しゃくじいがわ)が流れ、急崖によって自然の防累を形成していた。(後略)
    明治初年『東京府志料』よりの練馬城略図と工事中にでてきた遺構の写真あり。

    『練馬区小史』 練馬区 1987
    「中世の練馬と豊島氏」⇒練馬城(豊島園内)も石神井城と同じ時期に景村によって築かれたと伝えられる。

    『練馬城址遺跡調査報告書 付録5枚付』 練馬城址遺跡調査団編 豊島園発行 1991
    「序文」に「練馬城跡は大正15年4月に東京都旧跡指定され、豊島園をはじめ関係者の努力によって保存されてきた。豊島園は、年々増加するプール入場者に対応するため、ウォータースライダー設置を計画、今回の調査に至ったものである。昭和62年調査を始め、石神井川を望む舌状の台地上に立地し、城址中心部は土塁を除き良好な状態で遺存しており、中世城郭の占地が明らかであった。調査では基礎位置を中心に調査し、濠などの遺構を確認することとした」とある。

    『東京都江戸東京博物館研究報告 第15号』 江戸東京博物館 2009.3
    東京都江戸東京博物館シンポジウム「太田道潅と城館の戦国時代」の中の論文「石神井城跡と練馬城跡の発掘調査成果 」に練馬城跡本丸の推定地は昭和54年の豊島園整備工事の際の東京都教育委員会の緊急調査で「空堀の底幅1.7m、上幅5m程度、深さ3m程度であることが確認されている。豊島園内のプールの部分が主郭で「約100m四方の方形郭で、北側の石神井川に面する崖線を除く三方に空堀を巡らし四方を土塁で囲む」とある。

  • 「園芸植物大事典」によれば、ダイコンの栽培種は中央アジアが起源のひとつで、日本には1000年以前に渡来したと推定され、記録のうえでは700年代に認められるという。「地域食材大百科」によれば、720年「日本書紀」に「於朋泥」として記載があるという。江戸時代初期には今日栽培されている主要栽培品種はほぼ存在していたと考えられている。

    古事記 下巻「仁徳天皇」には 「つぎねふ 山代女(やましろめ)の 木鍬持(こくわも)ち 打ちし大根(おほね) 根白(ねじろ)の 白腕(しろただむき) 枕(ま)かずけばこそ 知らずとも言はめ」という歌がある。意味は「山城女が木の鍬を持って、畑を耕してつくった大根。その根のように白い腕を枕として共寝をしなかったのなら、知らないと言ってもいいが、そうは言えない仲ではないか。」

    日本書紀「大鷦鷯天皇(おほさぎのすめらみこと) 仁徳天皇」に同じ歌がある。(ただし、山城女→山背女、枕→纏。)

    「野菜園芸大百科」にはダイコンの日本への渡来について1250年以前と考証している旨記述があり、「大和本草」(貝原益軒 1709)に「凡そ大根に種類多し。」とあって、十数種があげられているという。また、東京練馬で延宝(1663~1680)のころ種子を尾張に求めて栽培されたのが練馬大根の発祥とされているともある。練馬大根は練馬群に属し、わが国最大の品種群である。綱吉将軍の奨励があり、風土がダイコンに好適していたため急速に特産化したものと思われる。

    日本で最初の一大植物図譜と言われる「本草図譜」の「菜部 四十六 十五」には「莱?」として大根が紹介されている。尾張宮重のものは「上品あじわひ良し」、「練馬徳丸の産」は周囲が一尺五六寸、長さが三尺、との記述がある。

    「種子を尾張に求めた」という説について、種苗研究家森健太郎 は次のような意見を述べている(全日本種苗研究会機関紙「種苗指針第二号」)。綱吉が取り寄せた大根が宮重大根とすれば、遺伝学上どこかに宮重大根の遺伝的現象が認められるはずであるが、なんら認められない。

    安永年間に世に出た大橋方長の「武蔵演路」(東京都神社史料第2輯収録 東京都神社庁)に、練馬大根は上練馬の百姓又六が作り出したと記載されているそうである。古い時代からあった練馬大根に、他のダイコンが交雑して変異したものを育成してきたものと思われる。その理由として、現在の練馬大根にいくつもの系統が出ていることからも、交雑であることが推測される。

    室町時代(1337~1573・日本中世史事典・朝倉書店、1336~1573・日本中世史年表・吉川弘文館)に尾張ダイコンとして甚目寺村方領(愛知県甚目寺(じもくじ)[現愛知県あま市])を中心に栽培されていたのが方領ダイコンである。
    また、尾張に接する美濃には鼠ダイコンのような栽培品種があったが、これが尾張の宮重村で方領との雑種として宮重ダイコンが育成されたと考えられている(「園芸植物大事典」)。
    練馬大根の原種となったダイコンが方領系だったのか宮重系だったのかは明らかでないが、練馬群の各品種が華南大根の遺伝形質を濃厚にとどめているところから、方領系に由来するという見方がある。このダイコンが江戸に移され、練馬大根が育成された。

    「練馬大根 新版」によると、武蔵野台地では火山灰が厚く積もった赤土の台地という自然条件以外に、江戸まで日帰りできる距離であったことや、江戸市民の人糞が豊富にあったなどの条件が重なって、需要が高まっていった。

    「北豊島郡誌」によると『徳川綱吉公が脚気症を患ったときに、占わせて、城の西北にある「馬」の字のつく地で療養したところ、次第に病は癒え、徒然を慰めるために蘿蔔(ロフ)(大根の意)の種子を尾張から取り寄せ、試しに字桜台(練馬の地名)で栽培させたところ大きな大根ができた(量三貫匁(ママ)、長さ四尺)。それ以来、城へ帰ってからも毎年栽培させて、東海寺の沢庵和尚に漬物を漬けさせた。』とあるが、伝えられる綱吉と沢庵の生没年は明らかに重ならない。

    現在練馬大根は市販されていないが、区の助成を受けた農家が年間1万3千本生産。2010年の区農業祭では1本200円で500本準備したものが40分で完売した(2010年11月7日朝日新聞朝刊より)。西武百貨店池袋店では、区内の漬物業者でつくる練馬漬物親睦(しんぼく)会が主催するねりま漬物物産展において、練馬大根の漬物が販売される。
    また、2010年12月5日には練馬大根引っこ抜き競技大会が開催され、0歳から83歳まで450人が区内外から参加した。この日は4時間で4千本が収穫されたそうである(2010年12月6日朝日新聞)。区民農園では練馬大根を栽培している区民もいるということである。

    2007年9月には練馬区独立60周年記念事業として、練馬大根創作料理コンテストが開催され「練馬大根創作料理コンテスト本選出場者 レシピ集」が区内図書館に所蔵されている。

    練馬区立図書館蔵書検索画面では「ネリマダイコン」でキーワード検索ができる。
  •       ホームページについては、ねりま区報昭和61年3月1日号に掲載された記事で郷土史研究家
          の桑島新一さんが書いたものです。

           区内図書館に下記の資料を所蔵しています。
  •       ①『大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿 第七巻』
           p.108~110に橋戸村の項があり、1596年に服部半蔵に送ったとされる古文書について書いてあります。
           p.110「慶長元年丙申壬七月七日~中略~服部石見守殿」以来、橋戸村は隣の白子村とともに伊賀組の
          領地になったとされています。
  •       ②『練馬区史 歴史編』
           p.1147に①と同じ内容があります。
     
  •       ③『新編武蔵国風土記稿 』
           p.31に①の手書きの写しがあります。
  •       ④『練馬ふるさと事典 』
           p.102「服部半蔵家」について書かれています。
            服部半蔵奉納の仁王像や、服部正成(半蔵)について書かれています。
  •       【参考資料】
           (1)大日本地誌大系 13 雄山閣 1996
           (2)練馬区史 歴史編 練馬区史編さん協議会/編集 東京都練馬区 1982
           (3)新編武蔵国風土記稿 桑島 新一 練馬区地名研究会 1989
           (4)練馬ふるさと事典 練馬古文書研究会/編 東京堂出版 2011

  •       練馬区立光が丘図書館所蔵の本『たたみのはなし』(さえら書房1985)
          によると以下の通りです。
           畳が使われるようになったのは平安時代です。板の間の上に置いて座ったり寝たりする、
          椅子やベッドのような使い方をしていたので、大きさや厚みもいろいろでした。
          鎌倉時代には畳を部屋の壁ぞいにぐるりと敷きつめるようになり、
          室町時代には部屋全体に敷くようになりました。
          そのためには畳の大きさや厚さがそろっていなくてはなりません。
          そこで16世紀の終わりごろ、京都地方で規格サイズの畳(長さ6尺3寸、幅はその半分)
          がつくられるようになりました。
          これを京間といいます。規格ができると、関西では畳に合わせて家を建てるようになりました。
          畳を並べてできた四角形の外がわに柱を立て、壁を作っていくというやり方です。
          畳を基準に柱の間隔や引き戸や窓の寸法を割り出していくので「たたみ割り」といいます。

  •       江戸時代になると、人口が急激に増えて、家もどんどん建つようになりました。
          ところがたたみ割りで建てた家は、部屋の広さによって柱の間隔がちがってきたり
          数字がはんぱだったりして、計算や材木を切るのに手間がかかります。
          そこで手早く家を建てるために、江戸の大工は柱と柱の間隔をきりの良い長さ(6尺)にきめ、
          これを基準にいろんな部分の寸法を割り出すようになりました。
          このため、畳のサイズは京間よりずっと小さく(長さ5尺8寸)なりました。
          このひとまわり小さい畳は関東地方を中心に広く使われるようになり、
          江戸間、関東間(のちに東京間)とよばれます。

  •       【参考資料】
           (1)たたみのはなし 山口泰子/著 さ・え・ら書房 1985 4-378-03721-1
           (2)畳のはなし 佐藤理/著 鹿島出版会 1985 4-306-09291-7
           (3)畳 リビング・デザインセンター 1997 4-7713-0237-5