2017年04月


「マラソン高橋勇市選手講演レポート」
今回特集するのは、アテネパラリンピックの
男子フルマラソン(視覚障害1)金メダリスト、高橋勇市選手!
高橋選手が練馬区の中学校で講演をされると聞き、取材をしてきました。
高橋選手にとってパラリンピックとはどういうものか?
練習や講演でお忙しい中、図書館のインタビューにも応じてくださいました。
高橋勇市選手 プロフィール

神山信次郎校長先生(右)
田島幸夫副校長先生(左)
練馬区立大泉第二中学校・校長室にて
- 高橋 勇市(たかはし ゆういち)
- 1965年6月12日生まれ・秋田県横手市出身
- 高校在学中に網膜色素変性症に罹患し視力が低下する
- 1984年に国立身体障害者リハビリテーションセンターに入学
- 1999年12月に初めてフルマラソンを完走する。この年から本格的なマラソントレーニングを開始する
- 2015年に三菱商事株式会社に入社、障害者スポーツ応援プロジェクト「DREAM AS ONE」のアンバサダー(親善大使)を務める
- 2017年現在 東京都北区スポーツ大使および秋田県横手市スポーツ親善大使を務める
- 2003年2月 第51回勝田全国マラソンフルマラソンの部にて日本新記録を達成
- 2003年3月 第7回東京・荒川市民マラソンにて自身の持つ日本記録を更新
- 2004年4月 国際盲人マラソンかすみがうら大会にて当時の世界記録を更新
- 2004年9月 アテネパラリンピックの男子フルマラソン(視覚障害1)金メダル
- 2006年9月 第4回IPC陸上競技世界選手権大会男子フルマラソン金メダル
- 2008年8月 北京パラリンピック男子フルマラソン(視覚障害者の部)16位入賞
- 2012年8月 ロンドンパラリンピック男子フルマラソン(視覚障害者の部)7位入賞
高橋勇市選手インタビュー
高橋選手にとってパラリンピックの持つ意義をお教えください。
自分自身の持っている力を最大限に発揮できる場所です。「ノーマライゼーション」の考え方を、多くの人々に知ってもらうための良き場所ではないかと思います。
東京2020パラリンピック競技大会に向けての意気込みを教えてください。
2020年は、何が何でも日本代表選手になりたいと思います。応援、よろしくお願いします。
東京2020大会がどのような大会になれば良いとお考えでしょうか。
障害者差別が無くなる社会のきっかけ、足がかりになればと思います。 社会的弱者に対して、気配り、配慮が自然に出てくる様な社会作りのきっかけになればと思います。社会が変われば、学校、職場でのいじめや差別も減少していくと思います。人を思いやる社会作りの幕開けとなってくれたらと思います。

講演会の様子
2017年3月1日、練馬区立大泉第二中学校で「夢をあきらめない」をテーマに講演をされた高橋選手。 会場は静かにお話に聞き入ったかと思えば爆笑の渦に包まれたり。視覚障害に悩んだ学生時代からパラリンピック出場に至るまで、心に響く講演の様子をぜひお読みください!
講演に先立ち、高橋選手がアテネパラリンピックに出場された際の映像が上映されました。その中で、視覚障害者がマラソンを走るにはコースの様子を言葉で伝える伴走者が不可欠であると紹介されました。伴走者には選手よりも30分ほど速く走る力が要求されるのだそうです。しかし、高橋選手の当時の記録はフルマラソンで2時間37分台。この記録より30分も速く走れるのは世界最高ランクの選手だけです。そこで、高橋選手はハーフマラソンの選手2名が連携して伴走者となる戦略をたてました。高橋選手の記録がいかに素晴らしいかよくわかりますね。高橋選手がこの伴走者のことを「家族というか恋人というか、目標がみんな一緒で気持ちもひとつにまとまっている」と述べられていることが印象的でした。
小学校~中学校時代

小学校3年生の時、校長先生の呼びかけで休み時間に校庭を走り始めました。走り続けるうちに走ることが苦痛ではなくなり、卒業するまで走り続けようと思いました。5年生の時に病気で学校を長期間休み、やっと登校した直後の持久走大会では、あんなに練習していたのに後ろから1等賞。涙が止まりませんでした。来年こそ!と練習を続け、実際に1番でゴールテープを切ることができました。嬉しくて嬉しくて、この1年間よく頑張ったという満足感と達成感を味わいました。
中学校では、オリンピックを目指して陸上部に入りました。校内マラソン大会では10位までに入るとメダルがもらえると聞いて、はりきって参加し、10位入賞を果たしました。1位は金メダル、2位は銀メダル、3位~6位は銅メダル、ところが7位からは表彰状のみ。先生に抗議すると、予算の都合で今年から6位までしかメダルがもらえなくなったと言われました。来年は6位までに入ってメダルをもらおうと練習し、2年生の時には6位に入賞しました。1位2位3位とメダルが授与されましたが、4位からは表彰状のみ。またかと文句を言いました。すると、また予算がなくて今年は3位までしかメダルが出せなくなったと言われました。次こそ、と一生懸命練習して3年生の時には3位に入賞しました。表彰式では1位から表彰状のみでした(場内爆笑)。また文句を言うと、メダルをもらえる、もらえないで文句を言う生徒が出てくるので今年からやめましたと言われました。
高校時代

健康診断後、医者から「あなたの目は難病におかされている。20歳で失明します。」と言われました。びっくりしましたが、どうせヤブ医者だろうと思いました。百科事典で調べても、「白点状網膜症」というその病名はどこにも載っていませんでした。信じないようにしていましたが、そのうち本当にだんだん見えにくくなってきました。体育の授業でボールがよく見えなかったり、跳び箱にぶつかったり。運動音痴と笑われ、いじめへとエスカレートしていきました。素直に目が見えないと言えばよかったのかもしれません。でも格好悪い、恥ずかしいと思って、手を貸してほしいとは卒業するまで言えませんでした。先生は黒板の文字がよく見える位置に座れと言ってくれましたが、見えないものは見えません。フィルムカメラでいえばフィルムが腐っていく、デジカメでいうとモニター画面の保護シールが腐っていく病気です。だからいくら良いレンズをいれても画像が見えないのです。でも見えるふりをして勉強していました。
目が見えない私は卒業して何をすれば良いのか。みなさんならどうしますか?大学に行きますか?就職しますか?私は進学を、と思いましたが、面接で黒板が見えないことを話すと落ちました。見えますと言えば合格したのかもしれませんが、合格したところで授業についていけません。自分の部屋に朝から晩までひとり、何の楽しみもありませんでした。テレビもろくに見えません。光っているとわかるだけです。
高校卒業後

高校を卒業して3か月、19歳になった時、医者の言葉を思い出しました。「20歳で失明する」。あと1年じゃないか。1年後は光っている太陽もテレビも見えなくなってしまう。今は両親がいるが、いつかはいなくなってしまう。それから先のことを思うと、ひとりでは生きていけない。毎日他人に迷惑をかけて、それでは生きている価値がない、死にたいと思うようになりました。そして自分の部屋から出ることのない生活に変わっていきました。
ある日、耐えきれなくなり、大声で叫びながらカッターナイフで自分を切りつけようとしました。母親は私にしがみつき、死なないでくれと大声で泣き叫んでいました。「20年、30年、40年先、手術ができる時代が来るかもしれない。そのときがきたら母さんの目と勇市の目を交換するから、それまで諦めずに頑張って生きていこう」と。そんな母親を見ているうちに心が落ち着き、死なないからと約束しました。
マラソンとの出会い

1996年、アトランタパラリンピックで柳川はるみさんという男性の方がマラソンで金メダルをとったというニュースを聞き、目が見えない人でも伴走者がいればフルマラソンを走れるんだということを知りました。その時、小、中学校の頃のことを思い出し、自分は健常者には勝てないが、目の見えない人同士なら勝てるのではないか、今度こそメダルをもらえるのではないかと思うようになりました。そのニュースを聞いたあとから走り始め、3か月後にフルマラソンを初めて走りました。先生の中でフルマラソンを走ったことある人はいますか?どのくらいで走りましたか?(この問いに、「4時間半です」との答えあり)。私は4時間50分でしたが、全身ぼろぼろで2度と走るものかと思いました。ですが、1週間経ってまた走りたくなり、2か月後に出ました。結果は4時間8分でした。その2か月後には、3時間50分でした。そこから2年ほどで、やっと3時間半で走れるようになりました。当時の日本代表の記録は3時間。2000年のシドニーパラリンピック日本代表を目指して一生懸命練習しましたが、疲労骨折してしまい、選考会に出ることができませんでした。

リハビリ後、2004年のアテネパラリンピックを目指して練習を始めました。2003年の選考会では2時間40分でゴールして日本代表に内定しました。その翌年の「かすみがうらマラソン」では2時間37分、当時の世界最高記録でゴールしました。びっくりしたことに、その日の夜、NHKのニュースで何回も世界記録が出たと報じられました。電車に乗ると「高橋さんですよね」と声をかけられました。そして出場したアテネパラリンピックでは金メダルをとりました。
たくさんの人に支えられて勝ち取った金メダルです。あの時母が自殺を止めてくれなかったら今日の自分はいなかった。走り始めて自分が大きく変わり、マラソンと出会って本当に良かったと思いました。それまでは人前で話すのが嫌いでした。目の見えない自分を人に見られるのがとても嫌で、なるべく人目につかないように暮らしていました。マラソンを走ることでみんなが私を見るようになって、「頑張れ!」と応援してくれます。そうしているうちに恥ずかしくなくなってきました。 今日もみなさんの前でお話できるような自分に変わってきました。今日はこの金メダルを学校においていきますので、みなさん触ってみて下さい。

『夢をあきらめない』という本もあるので、読んでみて下さい。今日は図書館の方が来ています。図書館で5冊くらい購入してくれるのではないかと期待しています。
質疑応答
講演後には生徒のみなさんとの質疑応答が行われました。
2年男子 「走ることのほかに気分転換にしていることや楽しんでいることはありますか?」
自転車、エアロバイクを漕いでいます。二人乗り自転車も持っていて、自分が後ろに乗ります。あと、コンサートに行きます。去年は2月にマドンナのコンサートに行きました。今度4月にはポール・マッカートニーのコンサートに行く予定です。
3年女子 「障害のある方が普段生活したりスポーツをしている中で私たち中学生がお手伝いできることは何ですか?」
駅や歩道で見かけたとき、何かお手伝いしましょうかと一声かけてもらえると助かります。昔は自分から言えませんでしたが、マラソンをするようになってから図々しくなり「手を貸して下さい」と叫んでいます。そうすると誰かしら手を貸してくれますが、自分が声を出さなくても手を貸してくれるととても助かります。
また、点字ブロックの上に自転車が乗っていて困ることがよくあります。点字ブロック上の自転車を移動させると、ここに置いてはいけないんだとだんだんわかってもらえるようになります。「点字ブロックの上に置かないでください」というメモを自転車に貼ってくれるのも良いと思います。
歩道の中央にある歩きにくい電柱をもっと端に寄せてくれるように署名を集めて東京電力に送ってくれるのも中学生のパワーだと思います。あの電柱では車椅子は通れません。暮らしやすい街になるようにみんなで変えていってほしいです。
講演会の取材をご許可いただいた高橋選手と神山校長先生をはじめとする大泉第二中学校の皆さまに感謝いたします。
現在でもパラリンピックへの挑戦を続ける高橋選手を応援していきたいと思います。